2008年06月16日 曽我逸郎
6月4日に行われた中川村公務殉職者慰霊祭の締めくくりに、中川村遺族会長 西村仁成さんがお礼の言葉を述べられた。
とてもいい内容で、原稿も頂戴できたので、ここに紹介したい。
春から初夏へ、色で言えば淡い藤色が似合う季節、つぱめが自由奔放に大空を飛び回るその姿を目で追っていると改めて自由を実感し、その幸せにきずかされてくれた燕に賛美を送りたくなる今日・・。
本日、中川村公務殉識者慰霊祭が、社会福祉協議会主催のもとにご来賓の皆様、上伊那地方事務所長様はじめ村長様、上伊那郡遺族会長様がたの慰霊の言葉を賜り心よりお礼申し上げる次第でございます。
又、遺族の皆様、各界の皆様がた多くの皆様には、ご多忙にもかかわらずご列席くださいまして誠にありがとうございました。そして慰霊、献花をいただき厚くお礼申し上げ感謝の意を表するものでございます。
戦後日本は、いかなる戦争も否定し平和国家として、歩んでまいりました。一部の人間が国の交戦権を認めさせようと目論んでも許さなかった、『あの悲しみを誰人にも合わせたくない、二度と戦争を起こしてはならない』、との私たちの強い意志が常に楯となってきたと思う。
我が子を、兄弟を、家族を戦争で失った私達遺族の涙が、今の日本の平和を支えてきたのです。
私達は、今、平和といえる中で暮らしています。確かに歴史に残るあの戦争は私達当時の人たちにとって、忘れることの出来ない記憶である事実です。そして歴史年表に刻まれた事変や出来事の真っ只中にあって、戦争の悲惨さや戦時下の苦しい生活だけを伝え残す時代ばかりだけでもなくて、今、平成の世には味わえそうもない達成感も得てきました。
自らの手で何かを探し、自らの知恵や工夫で必要なものや、楽しみさえ作り上げ、そこには隣り合う者の体温や愛情が感じられ、不自由さが逆に素晴らしいエネルギーと、価値を生んだ時代でした。
あのころの昭和を生きた人にしか、感じ取ることが出来ない感情であると思います。
2ヶ月あまり前、私は股関節の手術で入院しておりました。整形外科の受付の前は、いつも患者でいっぱいです。患者は高齢者が多い、ほとんどの人は足を引きずり、杖にすがり車椅子で元気な人たちに付き添われているわけで、これらの人達は昭和の激動期にお国のためと言う、大義名分の下に生きてきたわけでありまして、病院は、先生はじめ看護師さんもみな親切で『ここに来るのが楽しみ、生きる力をもらいにくる』そんな会話が聞こえてくるのです。
戦中戦後の悲惨な状況を語れる生き証人は、確かに少なくなってきている昨今、活字離れになってきている今、戦記物や読み物より当時を知ろうとする人達も、少ないのではないかとも云われている。いまにいたっても、いつの日になっても歴史認識に話が及ぶとき、日本人はアメリカが広島や長崎に原爆を落としたことを忘れない、同様に韓国、中国、東南アジアの人々は、日本人が何をしたのか忘れないのです。
日本は被爆国、敗戦国であると同時に、加害国であったわけで、私も学校時代に少し学んだ中で、被害者と加害者の立場から書かれた教科書を目にすることがなかったような気がします。
正しい過去の事実を知ることは、最も重要なことで、これから未来を築く子供たちのために、戦争のことを知って、自己中心の考えではいけないと感じ、平和とは、家族、友達、周りの人のすべてを大切にすることだと自覚でき、そして真の平和の時代を創造していく、『主権者』であってほしいと、心からそう願ってやみません。
終わりに、ご来賓の皆様方、ご列席の皆様の益々のご健勝をこころよりお祈り申し上げ。謝辞といたします。
以上