2007年09月05日 曽我逸郎


さるべき業縁のもよおせば


 上伊那地区保護司会から依頼を受けて、8月20日付けの『上伊那保護だより』に原稿を書いたので、転載する。

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 「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」
 私がどんなに善いことをしても、悪いことをしても、それは過去の縁によるのだ。

・・・親鸞の言葉である。
 人間は弱い。育ってきた環境やちょっとした縁に影響され、行いに癖がつき、善もなせば悪もなす。

 仏教には、もうひとつ興味深い物語がある。アングリマーラという男が、次々に人を殺し、その指を切り取って首飾りにしていたが、釈尊に出会って回心し、出家する。釈尊は、アングリマーラに、難産で苦しむ女性にむけて「私は故意に人を殺したことがない。そのことによってあなたと子供に安らぎがあるように」と言わせる。

 「故意に殺したことがない」とは、親鸞の言う業縁と同じ考えであろう。アングリマーラは、当然人々の攻撃も受けるが、自分を整えることを学び、安らぎに達した。

 人は弱い。しかし、基本的には善きものだと思う。悪縁なくして罪を犯す人はいない。罪を犯した人も、善い縁に恵まれれば更生する。
 ところが、昨今、懲罰主義が勢いを増し、復讐に共感する声が高まっている。競争や自己責任といった言葉で人と人が分断され、気遣いあう社会の温かい潤いが失われつつある。かえって悪い縁を増やしているのではないだろうか。
 互いに善い縁を与え合い、悪をなす必要をつくらず、悪をなした人にも更生の縁を提供できる社会。誰もが釈尊のようになれる筈もないが、我々一人一人によって社会のあり様は決まってくる。寛容な社会こそが、人を幸せにできると思う。
 私の考えは、現場知らずの甘い理想論であろう。しかし、保護司の皆さんは、まさにそういう最前線で献身的な働きをされており、頭が下がる。行政としても努力をしていくが、個々の具体的事例ではなかなか行き届かない点が多い。報われないご苦労も多いことと想像するが、引き続きのご尽力を願って止まない。

以上